Asanozawa サイバー速報

創氏改名の真相|なぜ実施され強制だったのか?氏と姓の違いを解説

2026年10月15日 読了目安: 3 分 itomi
目次 [ INDEX ]
創氏改名の真相|なぜ実施され強制だったのか?氏と姓の違いを解説
創氏改名の真相|なぜ実施され強制だったのか?氏と姓の違いを解説
@ creator • クリックで動画を再生
🎵 創氏改名の真相|なぜ実施され強制だったのか?氏と姓の違いを解説

日韓関係や歴史認識を巡る議論において、今なお激しい対立の火種となるテーマの一つが「創氏改名」です。歴史の授業やニュースで見聞きする機会は多いものの、実際にどのような制度設計であり、なぜ当時の朝鮮半島で導入されたのか、その実態を正確に把握している人は多くありません。

「日本風の名前を名乗るよう強制された」という主張と、「法的には任意であり強要ではなかった」という反論――。ネット上でも真っ向から対立するこの言説の背後には、法律上の建前と行政現場の実態という二重の構造が存在します。当時の一次資料や歴史的背景を紐解きながら、制度の目的、朝鮮固有の「姓」と日本の「氏」の違い、そして人々のリアルな葛藤を客観的に解説します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:1940年に施行された創氏改名は、血統を示す「姓」を残したまま家族単位の「氏」を新たに創る制度であり、下の名前を変える「改名」は任意だった。
  • 要点2:朝鮮総督府が推進した主目的は戦時体制下の皇民化政策にあり、法制度上は届出制だったものの、現場では行政や警察による事実上の強制が存在した。
  • 要点3:設定創氏の届出率は約8割に達したが、伝統的な血族意識との激しい摩擦を生み、戦後の戸籍回復を経て現在の歴史認識対立の根底に残り続けている。

【基本の整理】創氏改名とは何か?「氏」と「姓」の決定的な違い

創 氏 改名の関連写真・ビジュアル
【画像】創 氏 改名 関連ショット

創氏改名を正しく理解するうえで、最も基本的な前提となるのが「氏(うじ)」と「姓(せい)」の概念の違いです。現代の日本語では「氏名」や「姓名」をほぼ同義として扱いますが、当時の日本法と伝統的な朝鮮社会では全く異なる意味を持っていました。

朝鮮半島における「姓」とは、父系の血統集団(宗族)を示す生涯不変の標識です。「金(キム)」「李(イ)」「朴(パク)」といった姓に加え、始祖の発祥地である「本貫(ほんかん)」を極めて重視します。血族の純潔を守る観点から、夫婦であっても姓を変えない「夫婦別姓」であり、異なる姓の養子を取ることは禁じられていました。

一方、当時の日本本土(内地)における「氏」は、血縁関係そのものよりも生活共同体としての「家」を表す制度でした。明治民法のもとで家族全員が同じ氏を名乗る「夫婦同氏」が定められており、家の存続のために血縁関係のない養子を迎えることも広く認められていたのです。

1939年11月に公布され、翌1940年2月11日(紀元節)に施行された改正「朝鮮戸籍令」によって導入された創氏改名は、この2つの異なる法慣習をすり合わせる試みでもありました。具体的には以下の2つの要素から成り立っています。

① 創氏(氏を新たに創る):朝鮮の家族に対して、新しく「家の呼称」である氏を名乗らせること。従来の戸籍にも本姓と本貫は記載され続けたため、制度上「姓」が抹消されたわけではありません。
② 改名(名を日本風に変える):下の名前を変更すること。こちらは創氏とは法的に区別されていました。

【歴史的経緯】なぜ導入されたのか?朝鮮総督府の意図と皇民化政策

創 氏 改名の様子・注目ショット
【写真】創 氏 改名 近影・注目カット

創氏改名が実施された決定的な理由は、当時の緊迫した国際情勢と軍事体制の拡大に直結しています。日中戦争が泥沼化し、国家総動員体制へと突入していた日本において、朝鮮半島の人々を帝国臣民として精神的・制度的に統合する「皇民化政策(内鮮一体)」の推進が急務とされたためです。

当時、朝鮮総督を務めていた南次郎総督は、強力な同化政策を推進した人物として知られます。宮城遙拝や日の丸の掲揚、「皇国臣民の誓詞」の暗誦といった精神的指導に加え、日常生活の根幹である家族制度までも内地に合わせようとしました。

背景にあった実利的な動機が「兵力の動員」です。1938年には陸軍特別志願兵制度が朝鮮で導入され、将来的な徴兵制の適用も視野に入っていました。戦場において日本兵と朝鮮人兵士が混在する際、姓名の違いが部隊の統率や帰属意識に影響を与えるという軍部側の懸念も、法改正の後押しとなったのです。

さらに行政面の実務的な都合もありました。朝鮮の伝統的な夫婦別姓や養子縁組の制限は、内地の民法をベースとした近代的な法秩序や商業取引において、権利関係を把握しにくいという不便さが指摘されていました。家族単位で同一の「氏」を持たせることで、統治の円滑化と戸籍管理の一元化を図る狙いがあったと分析されています。

【強制性の真相】制度上の建前と現場の実態|届出率8割超の裏にあった圧力

創 氏 改名の報道・詳細資料
【資料】創 氏 改名 報道・メディア記録

「創氏改名は強制だったのか、それとも任意だったのか」という議論は、現在も歴史論争の中心にあります。この真相を読み解く鍵は、「法的な建前」と「行政現場の実態」の落差にあります。

法律上の規定を厳密に見れば、制度は以下のように設計されていました。

・創氏:施行から6か月以内(1940年8月10日まで)に新たな氏を届け出る形式。届出がない場合は、戸主の「姓」がそのまま「法定の氏」とみなされる。
・改名:完全な任意。裁判所の許可が必要であり、手数料を支払って申請する形式。

法令の文面上は、届出を出さなくても「従来の姓がそのまま氏になる」だけであり、刑罰や罰則が明記されていたわけではありません。この点を根拠に「強制ではなかった」と主張する論者も存在します。

しかし、実際の歴史の現場では全く異なる空気が支配していました。南次郎総督のもと、朝鮮総督府は各道知事や郡守、警察署長に対して激しい実績競争を課したのです。その結果、全国の行政機関や警察、教育現場で凄まじい同調圧力と行政指導が吹き荒れました。

創氏の届出を出さない家庭に対しては、以下のような実質的な制裁や嫌がらせが日常的に行われていた記録が残っています。

・子どもの学校への入学拒否や、校内での体罰・いじめ
・戦時下の食糧や生活必需品の「配給停止」や後回し
・官公庁での書類受理拒否や、就職・昇進における露骨な差別
・警察による「不逞鮮人(反体制派)」としてのマークや執拗な呼び出し

配給制が命綱であった戦時下において、配給の制限や就学拒否は生命や生活を直接脅かす脅迫に等しいものでした。結果として、当初は低調だった創氏の届出率は締め切り直前に急増し、最終的な届出率は約8割(戸数比で79〜84%程度)に達することになります。法的には「任意」の皮を被りながら、実質的には逃れようのない「事実上の強制」が働いていたというのが、現代の学術界で共有されている客観的な真相です。

【苗字の決め方】当時の人々はどんな「氏」を選んだのか?

創氏を余儀なくされた朝鮮の人々は、一体どのような方法で新しい苗字を決めたのでしょうか。ここには、伝統を守ろうとする抵抗と、生活防衛のための妥協という複雑な人間模様が色濃く反映されています。

最も多く見られたのが、先祖伝来の本貫地名や本姓を巧妙に組み込む手法です。

・金海金氏(キメ・キムシ)の人々が、本貫の地名を取って「金海(かなうみ/きむかい)」とする
・慶州李氏(キョンジュ・イシ)の人々が「慶州」や、李の字を分解して「木子(きこ)」とする
・「金」の姓を持つ人が、金に一角を足して「金村(かねむら)」や「金本(かねもと)」とする
・「張(チャン)」の姓を持つ人が、弓と長に分けて「張本(はりもと)」とする

自らのルーツである血筋を何とか後世に残すため、漢字の意味や故郷の地名に仮託した氏を考案する人が相次ぎました。一方で、差別を逃れて内地人(日本人)社会に溶け込むため、あえて「田中」「山田」「佐藤」といった一般的な日本の苗字を選ぶケースも見られました。

中には、総督府の同化政策に対する痛烈な抗議を込めた氏を届け出ようとして、当局に却下された事例も存在します。例えば、昭和天皇の皇族を連想させる氏や、悪態をつくような意味深な漢字を当てはめた届出などは厳重に取り締まられました。

対照的だったのが「改名(名前の変更)」です。改名には手数料(50銭)が必要だったことも手伝い、実際に改名を行った人は全体の1割弱(約9.6%)にとどまりました。苗字は生活のために変えざるを得なかったものの、親から授かった名前だけは死守した人が圧倒的多数派だった事実が、当時の人々の無言の抵抗を物語っています。

【戦後から現在へ】朝鮮戸籍の復元と現代に続く歴史認識問題

1945年8月の日本の敗戦により、創氏改名制度は突如としてその役割を終えました。朝鮮半島に進駐した米軍政庁は、翌1946年10月に「朝鮮姓名復元令」を公布。日本統治下で行われた創氏改名は法的に遡及して無効とされ、すべての戸籍上の名前が元の本姓へと戻されました。

しかし、制度の撤廃によってすべての傷が癒えたわけではありません。創氏改名が残した心理的・社会的な爪痕は、80年以上が経過した現在も日韓両国に深い影響を与え続けています。

韓国社会において、創氏改名は「自らの祖先と血統を冒涜された最大の屈辱」として記憶されています。儒教的な孝の道と祖先崇拝が根付く文化において、姓を強制的に変えさせられた経験は、単なる行政手続き以上の精神的なトラウマとして語り継がれてきました。

また、日本国内で暮らす在日コリアン社会における「通名(日本名)」の使用に関しても、創氏改名の歴史的経緯と複雑に絡み合っています。就職や生活上の差別を回避するために通名を名乗り続ける選択の裏には、戦前からの同化の記憶とアイデンティティの葛藤が横たわっています。

「書類上は任意だった」という形式論のみを切り取って主張する言説と、「民族のアイデンティティを根こそぎ奪われた」という被害の感情。双方が参照する事実のレイヤーが異なることこそが、今日に至るまで歴史認識問題の溝が埋まらない根本的な理由となっています。

【創氏改名】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:創氏改名によって、朝鮮固有の「姓」は完全に消えてしまったのですか?
A1:法制度上、姓が消滅したわけではありません。戸籍には新たに創られた「氏」とともに、従来の「姓」と「本貫」も併記されていました。ただし、公的な場や日常生活での呼び名としては「氏」の使用が義務付けられたため、実質的に姓を名乗る機会は奪われました。

Q2:創氏改名に応じなかった朝鮮の人々には、どのような罰則があったのですか?
A2:法律上の刑罰規定(懲役や罰金など)はありませんでした。しかし、行政現場では食糧・日用品の配給差別、子どもの就学拒否、警察による思想犯扱いや嫌がらせなど、日常生活を送ることが困難になるほどの強烈な不利益が課されました。

Q3:なぜ下の名前を変える「改名」の比率は1割程度と低かったのですか?
A3:改名は「創氏」と異なり、法的に完全な任意とされ、裁判所の許可と手数料が必要だったためです。また、総督府側も氏の創設を最優先として指導したため、多くの人々が親から付けられた大切な下の名前を守り抜きました。

まとめ:歴史の実相を多角的な視点から見つめ直す

創氏改名は、単なる「名前の変更」という事務的な施策ではなく、国家が個人の血統や家族観に深く踏み込んだ歴史的な出来事でした。その背景には、戦時体制下の皇民化政策という政治的意図と、近代法的な戸籍管理の効率化という行政的側面が複雑に絡み合っていました。

「法的な建前としての任意」と「実質的な強制を生み出した同調圧力」。この双方の側面を無視して片方の事実だけを強調してしまうと、歴史の真実を見誤ることになります。

過去の事実を感情的な対立の道具にするのではなく、当時の法体系や統治構造、そして生活のために苦渋の決断を迫られた個人の現実に目を向けること。多角的な視点で歴史的事実を丹念に解きほぐしていく姿勢こそが、これからの日韓の対話において何よりも求められています。 (出典: 創 氏 改名(Yahoo!ニュース))

田中 葵 (Aoi Tanaka)
トレンドデスク記者
田中 葵 (Aoi Tanaka)

最新のテクノロジーやネットトレンド、カルチャー速報を分かりやすく整理・分析して読者へお届けします。事実に基づく公平な記事構成を重視しています。

あなたにおすすめの関連記事