高度経済成長期の日本に「無責任男」旋風を巻き起こし、底抜けの明るさと圧倒的なバイタリティで国民を笑顔にした昭和の喜劇王・植木等。彼が80年の生涯に幕を下ろしてから年月が経った現在も、その突き抜けた笑いとダンディズムは語り継がれています。
しかし、スクリーンの向こうで飛び跳ねていた伝説のスターの晩年は、呼吸すらままならない過酷な病魔との闘いの日々でした。国民的スーパースターが直面した病気の真相、公表された死因、そして付き人として寝食を共にした愛弟子・小松政夫が明かした臨終の瞬間まで、その知られざる最後の日々を追いました。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:植木等の公式な死因は「肺気腫(慢性閉塞性肺疾患)」。2007年3月27日に80歳で静かに息を引き取った。
- 要点2:1990年代後半の前立腺がん手術を経て肺気腫が悪化。楽屋で在宅酸素吸入器を使いながら舞台に立ち続ける執念を見せた。
- 要点3:最期の病床には愛弟子・小松政夫が駆けつけ、言葉はなくとも師弟の強い絆が伝わる感動の別れが交わされた。
【公式発表】植木等の死因となった「肺気腫」と病気の経緯
植木等さんの没年月日は2007年(平成19年)3月27日午前10時41分。東京都千代田区の三井記念病院で、家族や関係者に見守られながら旅立ちました。享年は満80歳でした。
公表された直接の死因は「肺気腫」です。肺気腫とは、長年の喫煙や有害物質の吸入などによって肺胞が徐々に破壊され、酸素の取り込みが極端に困難になる慢性呼吸器疾患です。進行すると平地を歩くだけでも激しい息切れに襲われ、末期には安静にしていても呼吸困難に陥ります。
植木さんはかつて愛煙家として知られていましたが、体調の異変を感じて禁煙を決意。しかし、一度壊れてしまった肺胞が元に戻ることはありませんでした。1990年代半ばを過ぎた頃から少しずつ咳や息切れの頻度が増え、密かに専門医の診察を受けるようになっていたのです。
前立腺がんから始まった壮絶な闘病生活|酸素吸入器をつけて舞台へ
植木さんを襲った健康の危機は、肺の疾患だけにとどまりませんでした。1997年頃、検診によって前立腺がんが発覚。当時は病名を大々的に公表することなく手術を受け、見事に初期治療を乗り越えています。
ところが、がんの克服と入れ替わるように進行したのが肺気腫でした。2000年代に入ると病状は一段と重篤化し、日常生活でも携帯用の在宅酸素吸入器が手放せない状態に陥ります。鼻にチューブを通して酸素を補給しなければ、座っているだけでも息が苦しい過酷なコンディションでした。
それでも植木さんは「役者が病気を言い訳にしてはいけない」と、周囲に弱音を吐くことを一切拒みました。楽屋では直前まで酸素マスクを装着して荒い呼吸を整え、出番の合図がかかるとチューブを外し、背筋をピンと伸ばして舞台袖から飛び出していったといいます。観客には微塵も病気を感じさせないプロ意識は、まさに本物の表現者そのものでした。
愛弟子・小松政夫が涙した最期の瞬間|病室で交わされた無言の絆
植木等の人生を語る上で欠かせない存在が、付き人として下積み時代を支え、のちに昭和を代表するコメディアンとなった愛弟子・小松政夫さんです。
2007年1月、植木さんは食欲不振と呼吸不全の悪化により都内の病院へ緊急入院しました。治療が続けられたものの病状は好転せず、3月下旬に入ると容体が急変します。危篤の知らせを受け、仕事を調整して病室へ駆けつけた小松さんは、ベッドに横たわるやせ細った師匠の姿に絶句しました。
意識が混濁し、声を出すことすら難しかった植木さんに対し、小松さんはその右手を両手で包み込み、「親父さん、政夫です! 来ましたよ!」と涙ながらに何度も語りかけました。すると、植木さんはかすかに目を開け、小松さんの手をギュッと力強く握り返したのです。
それが、師弟が交わした最期の会話でした。小松さんは後年、「言葉はなくても、お前が来てくれたのは分かっているぞ、頑張れよ、と親父さんが伝えてくれたのが手の温もりで分かりました」と振り返っています。昭和の演芸史に輝く深い絆が、静かな病室で証明された瞬間でした。
クレージーキャッツの仲間が見送った葬儀・告別式と遺された言葉
植木さんの逝去を受け、2007年4月1日に通夜、翌2日には東京・芝の大本山増上寺光摂殿にて密葬・告別式が厳粛に執り行われました。喪主は妻の登美子さんが務め、政財界や芸能界から多くの著名人が詰めかけました。
祭壇には、トレードマークだった屈託のない笑顔を浮かべる植木さんの遺影が飾られ、会場にはハナ肇とクレージーキャッツの盟友たちが集結しました。すでにハナ肇さん、安田伸さんが先立っていた中、参列した谷啓さん、犬塚弘さん、桜井センリさんの悲しみは深く、谷啓さんは震える声で別れを告げました。
「植木屋、早すぎるよ……。お前が真ん中でパーッと笑ってくれないと、クレージーは締まらないじゃないか」
植木さんが生前、周囲に遺していた言葉は派手な遺言書ではなく、関係者や家族への感謝でした。「これまで本当にありがとう。最後はジメジメせず、みんないい顔で送ってほしい」。その遺志通り、告別式は涙の中にも温かい拍手が響き渡る感動的な門出となりました。
僧侶の父と「スーダラ節」の葛藤|植木等が人生の最後に遺した哲学
無責任男として日本中を沸かせた植木等さんですが、その素顔は誰よりも真面目で、ストイックな人物でした。実父である植木徹誠(てつじょう)氏は浄土真宗の僧侶であり、被差別部落解放運動や平和運動に生涯を捧げた高潔な宗教者でした。植木さん自身も東洋大学で仏教学を学び、得度を受けた僧侶の資格を持っていました。
1961年に大ヒットした「スーダラ節」のレコーディング前、植木さんは「わかっちゃいるけどやめられない」というフレーズに強いショックを受けました。「こんな人を小馬鹿にした無責任な歌を歌っていいのか」と深く悩み、父・徹誠氏に相談したエピソードは有名です。父は歌詞をじっくり読み、こう言って息子を励ましました。
「これこそ親鸞聖人の教えだ。人間誰しも、わかっちゃいるけどやめられない業(ごう)を背負って生きている。お前はこの歌を通じて、人間の本質を明るく救っているんだ。自信を持って歌いなさい」
この父の言葉が、植木さんの芸人としての背骨となりました。どれほど体を病魔に蝕まれても、最期まで弱音を人に見せず、品格を保ち続けた背景には、深く根ざした仏教的な死生観と覚悟があったのです。
【植木等の死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:植木等の正確な没年月日と享年はいくつですか?
A1:没年月日は2007年(平成19年)3月27日、享年は満80歳(数え年で81歳)でした。東京都千代田区の三井記念病院にて逝去しました。
Q2:植木等さんの本当の死因は何だったのですか?がんが原因ですか?
A2:公式に発表された死因は「肺気腫(慢性閉塞性肺疾患)」です。過去に前立腺がんを患い手術を受けた経緯はありますが、がんは克服しており、晩年の体調悪化と直接の死因は進行した肺気腫による呼吸不全でした。
Q3:弟子の小松政夫さんは最期を看取ることができたのですか?
A3:臨終の直前に病室へ駆けつけ、意識が薄れる師匠の手を握って呼びかけることができました。植木さんは言葉こそ出せなかったものの、小松さんの手を力強く握り返し、無言のうちに深い師弟愛を交わして旅立ちました。
まとめ:昭和の喜劇王が今なお日本人に勇気を与え続ける理由
激動の昭和を底抜けの陽気さで照らし続けた植木等さん。その晩年は、肺気腫という過酷な病との孤独で静かな闘いでした。しかし、呼吸困難の激痛に耐えながらも芸への誇りを捨てず、酸素吸入器を外してファンの前に立ち続けた姿は、まさに表現者としての極致でした。
「およびでない? こりゃまた失礼いたしました!」のギャグとともに走り抜けた80年の人生。彼が遺した朗らかな歌声とカラッとした笑顔は、不透明な時代を生きる私たちに「笑って前に進め」と、今も力強いエールを送り続けています。 (出典: 植木 等 死因(Yahoo!ニュース))